菊花石物語

菊花石の産地 赤倉山

赤倉山

松田集落の奥地にある下大須集落は、戦後になってから細い山道が出来たという根尾谷の難所です。昭和30年頃に赤倉山の谷、門脇谷の河川工事のさいに菊花石が発見されましたが人の噂にあがることもなく、岩魚釣りの人が希に訪れる寒村でした。昭和36年頃に石ブームが起こり初めて、岩魚釣りから菊花石に価値が移ったのです。そして、求める人の要望で昭和37年に採石許可を取り坑道掘により採掘されました。菊花石は石ブームの旗振り役としてブームを牽引してきましたが、菊花石の偽物などが現れるなど、様々な功罪を造り、昭和40年頃にブームは収束しました。しかし、赤倉山の菊花石は質が良いので採掘は続けられたのです。

赤倉山の奥、上大須に最大発電量150万キロワットの巨大な奥美濃揚水発電所のダム建設が昭和52年頃から始まりました。昭和54年頃に仮設道路が出来てトラックがはいれると、菊花石の採石が大がかりな露天掘りに変わり、これまでの何倍もの菊花石を産出したのです。露天掘りにより大きな母岩が産出され、索道で山から降ろすので母岩が割れずに大きく取り出されたので、菊花石が理解されてきました。長く採石されてきた赤倉山は平成14年頃には菊花石層が取り尽くされてしまい、約40年に渡り大量に産出した菊花石は全国に散逸してしまいました。赤倉山の菊花石は適度な硬さを持った母岩であり、芯も花も良い母岩が多く産出されました。

赤倉山 遠望 中央の白い所が採石場
昭和初期 大須までの梯子道 根尾村誌より

赤倉山の採石

菊花石採石許可
菊花石採石許可

赤倉山は天然記念物の指定地に指定されていませんが、門脇谷や周辺が砂防指定地に指定されており、県知事の許可を貰って採石されました。採掘はダイナマイトを使用するため、毎年煩雑な事務手続きと安全管理を必要としました。旧根尾村樽見で喫茶店を営んでいた宮脇孝男氏が危険物取扱い許可を持ち、これらの許可手続きをしていました。氏は地元の愛好作家でもあり、喫茶店は採石業者の情報交換の場所でもありました。

故 梶原秀雄氏
昭和53年 穴掘の跡

赤倉山に残っていた 初期の採石跡。根尾谷には、マンガン鉱山が幾つもあり、マンガン鉱夫を雇い入れて採掘にあたらせました。菊花石もマンガンと同じ扱いで細かく割られ採石されました。梶原氏は旧根尾村平野で菊花石のお店を営み、夏は鮎を釣り、囮を売って過ごしていました。自然感が優れ、母岩を見極める人でもありました。氏の功績は大きく、資質の良い母岩を愛好家に便宜を図ったので、名石の散逸を防げました。石ブームの頃には、赤倉山で採石された経験を持っており、多くの愛好家を山に案内をして山の状況や産出を伝えました。

ナカシマ坑 右故 梶原氏
昭和54年 坑道掘り

ナカシマ坑 天降樋が昭和53年に産出した坑道。露天掘りになり、昭和62年黄金菊花石が産出した場所でもあります。採掘も大変ですが、赤倉山から母岩を降す作業がまた大変であったので、大きな母岩は坑道から搬出出来ないので、小さく割って産出しました。また、花の確認をして降ろしていたので、割られて花のない母岩が坑道の周りに積み上げられていました。菊花石の価格は当時の採石費用であり、採石業者の苦労を知れば安価な値段でした。

地表面の菊花石を取り出すと坑道掘りに移行した
脆い岩盤の中で危険をかえりみず採石された
昭和55年頃の赤倉山
露天掘り

昭和54年から始まった露天堀の最初の年は露頭観察が出来たので、菊花石の生成を余す事なく教えてくれました。この当時、菊花石の生成は海底火山のマグマが海底に流れ込んで出来たとされていました。しかし、露頭を見る限り海底火山のマグマが海底に流れ込んだ痕跡は何一つないのです。赤倉山の山頂付近でマグマが火山灰の岩盤を焼いた後を残して幅広く流れていました。それは、川の流と同じように流れていたのです。

樋 約5メートルの幅で流れています
白い部分が菊花石の母岩

採石業者は川のように続くこの流れを樋(ひ)と呼んでおり、この樋にそって菊花石の母岩が出来ています。線の採石から面の採石に変わった事により、大量の菊花石が大きなまま産出され、大きな母岩が索道で下ろされました。露天掘りは大量産出が続いたので、3年程で菊花石が取りつくされると危惧されていましたが、赤倉山の菊花石層は幾筋もあり、山中深く流れていたため昭和54年から昭和62年頃までは大量に菊花石が産出した黄金時代でした。

索道と露天掘り
残土処理の重機
平成9年頃の赤倉山
ナカシマ鉱の採掘あと

平成に入ると、菊花石の樋の流れは山深く貫入して僅かな層を取り出すため、大量の山石を崩してしまい、その残土処理のため土砂止め堰堤を何層にも築きながら採掘されたのです。そしてその切り羽の高さは60メートルにも及びました。危険で厳しい採掘が続いたのです。そして取り出された母岩は、山の地圧を受けてひびが入った母岩が多く産出したのです。

最後の菊花石(後の菊)

平成14年頃に赤倉山の採石が終わりましたが、求める愛好家の要望が強くあり、新たに新しい場所が採掘されました。谷道が崖崩れで通えず、山をまわり込んで採掘現場に入って行きました。採掘業者も高齢となり、ここに通うだけでも大変だったのですが、菊花石の採石には男のロマンがあったので、私財を投げ打って採掘されたのです。ここは、薄い大きな母岩が産出しました。そして、索道で下ろされて比較的大きな母岩のまま花出しをされたのです。そして平成23年、赤倉山の採掘が全て終わりました。採石業者の労苦に感謝いたします。

赤倉山 最後の採掘あと
最後の菊花石原石 左右120センチ